爪痕
ついておいで。
出し抜けに言われた一言に瞬きを繰り返す。兄弟たちが集められた部屋に座り込んでうとうとと微睡んでいた時のこと。俺たちを集めた人間にいっとう愛されている彼が、目の前に立っていた。
「俺ですか?」
「そう。ほら、早く」
言うが早く腕を掴まれて引き立てられる。訳がわからない俺をそのままに、彼はずんずん歩いていく。
蔵の中から屋敷の中へ。見るものすべてが珍しくて足を向けようとしたり手を伸ばしたりする度に、急いでいるからと強く腕を引かれる。少しくらいいいではないかと口を尖らせても無視をされる。
広い屋敷の中を歩いて、いっとう広い部屋に着いたところで彼はぱっと掴んでいた手を離して座った。ぽかんと立ち尽くす俺に視線も向けずに座ってと言う。
「何があるのですか?」
「お前を下賜するとあの人が決めた」
難しい言葉に首を傾げる。するとため息を吐いて言い直してくれた。
「この後来る人間と一緒に行くということだ」
「外に出られるのですか!?」
嬉しくて思わず立ち上がり、彼の向かいに立つ。喜んでいるとばかり思っていたのに、彼は何故か悲しそうな顔をしていた。何でだろう。首を傾げると彼は小さくため息を吐いてから、座って、と言う。大人しく従うと膝の上に置いていた手をそっと握られる。どうしたのだろうと見上げる。
「……お前は、どんな付喪神になるんだろうね」
視線を合わせて言われた言葉はやはり俺には難しくて首を傾げる。でもひとつだけはっきりとわかることがある。
「あなたみたいに、誰かにいっとう愛されて、その人間を大切に思えるようになりたいです!」
蔵の中にしまうばかりではなく外に連れて行かれるような、もっと願っていいなら戦場で一緒に戦うような、そんな刀でありたい。そう言った俺に彼は珍しく柔らかく微笑んだ。
「それはいい」
よく励みなさい。そう言って髪を梳くように撫でた彼は何かを思いついたように手を止め、近くにいた付喪神に声をかける。声をかけられた付喪神はすぐに戻ってくると何かを彼に手渡す。受け取った彼はすくっと立ち上がって俺の後ろに回り込む。
「前を向いて動かないで」
何があるのだろうと首を回した俺に彼が言う。慌てて前を向いて背筋を伸ばすとくすりと笑う気配の後、無造作に伸びた髪に櫛を通される。くすぐったさを耐えていると突然顔の前の髪をすべて後ろに持ち上げられて視界が明るくなる。
「お前の持ち主になる人間はきっとお前を戦場に連れていくから、視界は広い方がいいだろう」
「わあ!ありがとうございます!」
手ずから髪を整えてもらえるなんて考えてもいなくてはしゃいでしまう。彼はそんな俺にこのくらい大したことないと返す。
今の自分はどんな姿なのだろう。ここに来る途中に池があったことを思い出して見に行きたい気持ちでいっぱいになった。
「ねえ、どうなってるのか見に行っていい?」
「もうすぐ始まるから大人しくしていなさい」
そうこうしているうちに人間たちが集まって来た。彼の言う通り渋々大人しくする。別にどこにも行きやしないのに、彼がもう一度そっと手を重ねてくる。
人間たちの退屈な話の間、俺は重ねられたのと反対の手を使って彼の手で遊んで過ごす。
この時俺は、最初に彼が言った言葉の意味をまるでわかっていなかった。
門から出ていく人間たちを眺めていると不意に彼に肩を抱かれる。
「兄様?」
俺が首を傾げても何も言わない。ただ、体を引かれて抱き込まれる。視線を合わせるように彼が屈んだので、顔がとても近くにある。
くん。と、何かに背中から引かれたような感触に、首を後ろに向けるが、何もない。
「……今の、なに?」
震える声で呟く。なんだか恐ろしいことが起きていることにようやく気付いた。彼は一層強く俺を抱きしめる。
「いつか、あの人間に見合う姿に成長したお前と会えることを願うよ」
「兄、様?」
そっと囁くように告げられた言葉に困惑するうちに彼は立ち上がり、俺の肩に乗せていた手を放す。
途端に強い力で体が後ろへ引っ張られる。
「わっ!え、なに!?」
何もわからない。辛うじて掴んでいたはずの彼の服が、俺の手から外れてしまう。それをもう一度掴もうと伸ばすが届かない。
何が起きているのかわからない。けれど足元がぐらつくような感覚に恐怖が襲う。
「兄様!助けて兄様!」
わあわあと泣き喚きながら腕を伸ばすが、体は後ろへ引かれていく。
「助けて、実休兄様ぁ!」
泣いても叫んでも、彼は――実休光忠は一歩も動かなかった。
* * * * *
「髪型、ちょっと違うね」
唐突に投げられた言葉にぱちりと瞬きをする。
「あーちょっと気分変えたくなった時期があっていじった」
「そう。お前にも色々あったんだろうね」
実休がそう言って後ろに残した髪を指先で弄ぶ。
「でも、前髪は今でも上げているんだね」
「それは、まあ、あれだ。お前が言った通り正則の刀としてはこの髪型が一番しっくり来たんだよ」
嘘ではないが全部ではない。あの日、実休が整えたこの髪型だけが俺にとって彼との最後のよすがとなった。それが実休にとって特別なことではなかったのかもしれない。それでも正則の刀となる俺のために髪を整えてくれたことだけは確かなのだ。
憧れていた兄とのつながりをなくした福島にとってのせめてもの抵抗。こうしていればいつか彼が自分を見出してくれるのではないかと願った、悪あがき。
そしてそれは現実となった。
「ところで、福島は僕のことを兄とは呼んでくれないの?」
「今日はなんかぐいぐいくるな」
「だって、髪を下ろしたところを見たらお前を見送った日のこと思い出しちゃって。あの時泣きながら実休兄様って呼んでくれたなって」
「……記憶がおぼろげなんじゃなかったのか」
「人間って何かのきっかけで忘れたことを思い出すことが多いって主が言ってたからそれだよ」
「適当だな」
「それで、呼んでくれないの?」
引こうとしない実休に呆れる。
「俺は別に呼んでもいいんだけど、光忠が困るだろうからなあ」
「……なんでそこで燭台切が出てくるの?」
「だってあいつやさしいから」
お兄ちゃんと呼ばれたら嬉しいが、あくまで光忠から自発的にしてもらうからいいのだ。外堀から埋めて兄呼びを強いる雰囲気を作るのは避けたい。とはいえこちらの言い分に実休が納得するかは別の話で。
「今は燭台切も誰もいないよ」
「はいはい。そうだな……兄さん兄ちゃん兄様……俺が提供できるラインナップはこんなもんだけどどれがいい?」
早々に諦めて選ばせると真剣に悩み出した。
「あの日の福島を思い出す兄様は魅力的だけど、今の福島の雰囲気にあった兄ちゃんも捨てがたい…」
ぶつぶつと呟く実休に苦笑しながら本を開く。
「好きなだけ悩みなよ、実休の兄上」
「ねえ……何でそこで選択肢増やすんだい…」
絶望した顔を見せる実休にカラカラと笑いながら思う。あの日のあの別れに痛みを感じていたのは自分だけではなかったのだ。今よりずっと厳格な雰囲気を漂わせていたけれど、この兄も自分との別れを惜しんでいてくれたのだ。
あの日あの時実休が髪を整えてくれたことは、二振りだけの思い出だ。
普段接点が薄い相手が別れの前だけ優しい思い出を残すのってずるいよなとか、それは引きずっちゃうよねって思いながら書いてました。
2023/09/25