ああ、まただ。
少し離れたところに福島がいる。
焦がれるように熱い視線がこちらに注がれている。
けれどその目は自分のことを映してはいない。
その視線はいつも、隣の仏頂面に向けられている。
真綿に包んだ針
舞い上がる花弁を背に立つ姿は綺麗だった。
穏やかに微笑む顔に一瞬呼吸を忘れた。
過去、共に在った時からそうだったし、兄弟刀や同じ刀派の連中が揃って洒落た姿で顕現しているのだから、きっとそうであろうと思っていた。
福島光忠のヒトガタは、日本号の想像を超えた美しさだった。
もっともその姿も日本号を目にした途端に崩れ去り、さながら愁嘆場のごとく涙を流して場を困惑させた。と言ってもすぐに元の振る舞いに戻ったので、本丸の皆には長船にしては感情の波が激しい奴、という認識に落ち着いた。
日本号はといえばこの美しい男が身も世もなく泣き縋るのが自分相手だけだということに柄にもなく浮かれた。人の身を得たばかりでは困ることも多かろうと世話を焼く。
突如現れた兄に戸惑う燭台切と、頼りすぎるのも兄としてどうかと迷う福島の微妙な兄弟心につけ込んだ自覚はある。兄弟が歩み寄る前に福島にまずは日本号を頼るように刷り込んだ。独占するなら懸念材料は排除したいのは当然の心境だ。
そう、はっきりと言える。日本号は初めて福島光忠を見た時から、己が物にしたいと望んでいた。掌中之珠のごとく愛でて慈しんで、果てに彼を食らい尽くしたい。
そんな真綿で針を包んだような思いを隠して日本号は福島だけを優しく甘やかし、時に叱咤し接する。福島もそれを甘受し、日本号の前でだけはその男前然とした表情を緩めていた。そうして互いに最も近い存在であると誰もが思っていた。
この本丸の審神者は床に伏せることが多い。
出撃も遠征もまばらで、資材の貯蔵も少ない。期間限定の鍛刀顕現など、この本丸の審神者には日課に少しやってみようか程度の扱いだ。
催し物にも積極的ではなく、後一歩で入手に及ばなくても練度は上がったので良しとしてしまうくらいに大雑把加減だ。新入りが来ることは珍しいと言える。こんな審神者なので日本号は福島光忠が無事顕現したことは半ば奇跡に近いものがあると感じている。
それでも審神者は正月に本丸でやる御籤の季節だけは前後の連隊戦も含め真面目に仕事をする。ポイント引き換えで戦力が補充されるのはありがたいとは審神者の弁だ。
審神者が不在の期間は、近侍である鶯丸が本丸を取り仕切っている。と言っても大したことはしていない。ただ審神者の居室棟と本丸を行き来して、審神者が戻った時に全体に伝えるだけだ。なお近侍の選抜基準は「戻った時に主の存在を強く求めてこないこと」である。これはかなり大きな理由であり、最も信を置いている初期刀の山姥切国広でさえ体調がすこぶる安定している時にしか近侍に任命されない
。
閑話休題。
審神者不在の間、本丸の外では敵からの大規模侵攻に備えての何かしらが起きていたらしい。それらの最終局面になって漸く審神者は戻ってきた。そしてその難局を精鋭たちを投入して乗り切った。
それから全体の底上げが必要と、しばらく着手してこなかった低練度の刀剣男士の育成を始めた。この審神者は何かと均一主義で、全体を揃えたがるからこういう時はしばしばある。その際の部隊編成や修行へ行く順番も概ね顕現した順で決まっている。
後から思えばこの時から、福島を独占したいという日本号の思惑は外れ始めていたのだろう。日本号は練度上限に達して久しく、かといってすぐに修行に出されるわけでもない、カンスト隠居の身。対して福島は練度上げの対象に入れられて忙しなく出陣をしていた。
転送ゲートの前で並んで話す長身がふたつ。片方は福島、もう片方は福島の連隊戦後に引き換えで顕現した男士。二振りは何やら先ほどまでの戦闘について話しているらしい。と、福島が日本号に気付く。
「号ちゃん!」
「よう、光忠」
「聞いてくれよ!俺今日の出陣で一番誉取ってきたんだよ!」
途端、隣の奴に詫びを入れてこちらに駆け寄ってきた。飛びつきはしないが福島は日本号の前で今日の戦がどんなものであったか語って聞かせる。仕方ないな、と苦笑をしながらも内心は歓喜と優越感で満たされていた。ころころと表情を変えるこの美しい男が優先するのは自分なのだと思うと、いい気分だった。
それから夏の連隊戦で最高報酬を得たのを境に、審神者は長く床に伏せることになる。
違和感に気付いたのは、とても些細なきっかけだった。
審神者がいなければ暇を持て余す。その時は黒田縁の連中と集まって、何かしらを話していた。ひょこりと顔を覗かせた福島の言葉に違和感があった。
「ごめんよ、ちょっとだけ日本号のこと借りてもいいかな?」
室内にいた連中は簡単に日本号を送り出す。その時の福島の用事は夏物を仕舞うか否かといったとても簡単なものだった。自分がそう仕込んでおきながら、その通りにそんなことをわざわざ相談に来たことがたまらなく愛おしくなる。だからだろう、この時はこの些細な違いに気付くことができなかった。
次に違和感を覚えたのは槍部屋で飲んでいた時。
「こんにちは、号ちゃんいるかい?」
「おーいるぜー。福島もこっち来いよー」
「じゃあお言葉に甘えて……あ、また飲んでるの?」
御手杵の緩い返答で福島は入ってくる。呆れたように何かを言っていたのは覚えているが詳細は覚えていない。この時も大したことのない用事だったことに愛おしさは感じた。けれど肝心なのはそこではない。この前別の場所でも似たようなやり取りをした。その時とは、何かが違った。
「どうしたの、号ちゃん?」
怪訝そうにする福島の問いで気付く。こいつはどんな場面であろうと大抵は日本号のことを愛称で呼ぶ。それを無意識の特別扱いだといい気になっていた。それが先日、黒田で集まっていた時には「日本号」と名前で呼んだ。
やはり飲み取りの一件で黒田には遠慮しているのだろうか。得体の知れない嫌な気配が纏わりついているようだった。
「あいつ、お前らと話す時は俺のこと日本号って呼んだりするのか?」
「あいつって、福ちゃんのことかい?」
酒飲みが集まってやるちょっとした宴会で、大般若に聞いてみる。
「いやぁ?長船の部屋で話す時は号ちゃん呼びだねぇ。今日の号ちゃん、楽しませてもらってるよ」
「……何だそりゃ」
思わぬ返答にガクリと肩を落とす。大般若の言葉から想像するに、その日日本号との間にあったことを報告する会だろう。何だそれ、微笑ましいな。そんなことを考えてにやけていると、大般若が呆れた目を向けてくる。
「にやけてるところ悪いが、これ、あんたが思ってるほど穏やかなもんじゃないぞ」
「は?」
この字面で穏やかではないとは何事か。つけ回されてでもいるのか。こちらとしては大歓迎だ。
「燭台切が……まあこれは俺たちも同じように思ってるから総意ではあるんだが、あまりあんたばかりに頼るのはどうかと思うってんでな。あんたに頼ることがあったら内容を報告させてるんだ。で、内容によっては次から俺らが手伝った方が早いものを教えてるんだ」
「……は?」
晴天の霹靂だった。そういえば最近福島からあれもこれも助けてほしいと頼られることが減っている。一振りでできることが増えたのだろうと眺め、手を出す隙を探してはいたが、そういうことだったのか。落ち着いてしまえば燭台切だって福島との接し方を定める。世話焼きの長船の連中がそれに手を貸さないわけもない。顕現当初懸念していた事態に進みつつあるようだ。
「まあ、福ちゃんもその辺はわかってるけど、やっぱりあんた頼みになっちまうんだろうね」
一途だねぇと盃を傾ける大般若に、何に対するものかを問い詰めなかったことを、後に日本号は後悔することになる。
日本号のこと、借りていいかな。
黒田の連中が揃っている時に福島が使うどこか他所行きの言い回し。そんなものを使う理由は何か。
黒田に対する遠慮ではないように思う。何故なら短刀たちと話す時はごく自然に日本号を愛称で呼ぶからだ。
では何が理由か。その答えは唐突に目の前に突きつけられた。
「日本号のこと、借りていいかな」
その日は短刀たちは訓練も兼ねたかくれんぼをするとかで不在だった。部屋にいたのは日本号の他に長谷部と日光。普段であれば二つ返事で日本号を送り出す厚や博多の代わりに長谷部が口を開いた。
「構わんが、何かあったのか?」
「うーん、問題があったわけじゃなくて、アレンジの相談に乗って欲しくて…」
先日の大般若の話から、くだらない用事では自分を呼びつけはしないだろうと思っていた。それにしても意外な内容に日本号と長谷部は眉を寄せる。
「おい、それ俺が行って役に立つやつか?」
「えーと……そろそろ主の就任記念が近付いて来てるって光忠から聞いて」
「貴様も主に花を贈ろうと?」
「そんな大層なものじゃないよ。でも部屋の飾りくらいはしたいじゃないか。だって五周年なんて節目の年でしょう?」
審神者の就任記念日。その単語に長谷部と目配せをする。
おそらく今年の記念日に審神者は来ない。それはある程度古株の連中が皆感じている予感。けれどそれを目の前の顕現して一年経たない者たちの前で口にするのは憚られた。
「え、と。都合悪いなら、他の誰かに相談するよ」
黙り込む日本号たちに困惑した様子で福島が言う。そうではないと口を開きかけた、その時だった。
「相わかった」
それまで黙っていた日光が口を挟んできた。
「そういうことであるなら、ここで考えればよいのではないか?今はまだ花そのものを使うわけではないのだろう」
「そ、れは……うん、そうだね」
驚いたのか少し上擦った声音で福島が返す。それから日本号たちに視線を向けて確認を取る。長谷部は特に気にした風でもなく頷く。日本号としては二振りきりでしたい相談だったが、断るに足る理由が見当たらずに仕方なく承諾する。
「ありがとう、それじゃあお邪魔するね」
そう言って浮かべた笑みに日本号は言葉を失う。喜びを焦がれるような熱で煮詰めたような甘ったるく蕩けるような表情。そんなもの、日本号は向けられたことはなかった。
その後は何を話したのか覚えていない。終始上の空の日本号に三者三様に話を振ってくるのを適当に返した。
「もう、号ちゃん。正三位なんだから雅なこともわかるでしょう?ちゃんと手伝ってよ」
カラカラと笑う顔はいつもの楽しげなもので、先程の熱は微塵も感じない。それだけであの熱が自分に向けられたものでないことを痛感する。
「こんなものでどうだ?」
「そうだね……うん、これなら予算も多くはかからなさそうだ。助かったよ、長谷部くん」
しばらく話して大体の案がまとまった頃、福島はそう言って大切そうに紙を撫でる。
「細かいところは当日いじるだろうけど、これで行けそうだよ」
「そうか。役に立てたのであれば何よりだ」
「うん、日光君もありがとう。いつもはひとりで考えるけれど、みんなで考えるのも新鮮で良かったよ」
誘ってくれてありがとう。微かに熱を帯びた微笑み。確信する。ああ、そいつか。お前にそんな表情をさせるのはそいつなのか。
それじゃあまたねと席を立つ福島を追って日本号も席を立つと揃って部屋に出る。
「……あれ、どうしたの号ちゃん?」
どうしたのではない。日本号に対しては驚くほどいつも通りの福島に腹の底で何かが渦巻く。
「……別に。腹減ったから厨で食い物でももらって部屋で飲み直そうと思ってな」
「そう?じゃあ厨まで一緒だね。俺もお腹空いちゃった」
並んで歩く途中、福島はずっとふわふわと浮ついた空気を浮かべていた。その様に何度も、日光に惚れているのかと問いたくなるのを堪える。あれは無意識の発露で、まだ福島も自覚していない感情なのではないかと淡い期待に縋ってしまう自分に自嘲する。
そもそも何故日光なのか。
部屋で一人飲みながら両者にそこまで接点がないだろうにと知りうる限りの交友関係思い出して、一つの事実に思い当たる。
日光一文字がこの本丸にやってきたのは本霊の契約時期と比べてかなり遅い。鍛刀入手の時は程々に、確定報酬の催し物は審神者が伏せっていて未参加。結局手に入れたのは年始の御籤の引き換えだ。
連隊戦の終了間際にギリギリ報酬で手に入れた福島とは顕現時期がかなり近い。世話役こそ違ったものの、研修の類はセットだし、何より二振りは同時期に練度上げ部隊に入れられていた。
本丸という場において、かつての主や刀派の縁は確かに存在する。実際日本号もそれを理由に福島を構い倒し、燭台切を警戒した。けれどそれと等しく、否、もしかしたらそれ以上に本丸の中で生活していくうちに生まれるつながりもある。そしてそれは戦闘の時もまた同じ。
――日光くんって頼りになるよねぇ……さすが黒田の宝刀だよ
陶然とした口調で言った福島の言葉を思い返す。あの時は単に共に出撃した仲間に対する賞賛だと思っていたが、違うのではないか。一体いつから福島は日光に思いを寄せていたのか。
疑えば疑うほどに、疑惑が浮かぶ。さすがに黒田の集まりに顔を出すのが日光の顔を見るため、とは思いたくない。それでもあの、日本号を借りたいという言い回しは日光に向けての何かしらの感情からきていることだけは確かだ。
ああ、この胸の痛みは何だ。腹の中を暴れ回る衝動は何だ。
奥歯を噛み締め、空の手を強く握りしめる。そうでもしなければこの荒れ狂う感情を表に出してしまいそうだった。
叫び出したくなるほどの嫉妬を知ったのは顕現して三年目の秋だった。
続