年の瀬も迫ったある晩。
自宅の安アパートに帰るとドアの前に男が一人蹲っていた。
――ああ、もうそんな時期なのか
声をかける前にこちらに気付いた男は顔を上げた。困ったように笑うので、こちらもため息を吐いてカバンを頭に乗せてやる。
「痛いよ、号ちゃん」
「そこ座られると邪魔なんだよ」
ほら立てと急かすと男は素直に立って一歩ずれる。扉を開ければ今度は声をかける前にひょいと家に入ってくる。
「おかえり、号ちゃん」
にこりと笑う男にぐるぐると言いたいことを一巡。それをぐっと飲み込んで諦めとと共に返す言葉は決まっている。
「……ただいま、光忠」
年の瀬が迫る仕事帰りの夜。
男――福島光忠は今年も日ノ本号の前に現れた。
ラブレターフロムナニカ
日ノ本号の初恋は、斜向かいに住んでいた五つ年上の少年だった。名を福島光忠という。
花が好きでおっとりした性格。色々な人に親切で、ご近所の人気者。鍵っ子の日ノ本のこともよく構ってくれた。すごいね号ちゃんと福島が笑っているところを見ていたくて、とにかく何でもやっていた。
あの頃の日ノ本は確かに、福島に恋をしていた。
毎日のように一緒にいた。赦されているのをいいことについて回って構われて。それが自分の特権なんだと振る舞って、それさえも福島は赦してくれていて。
けれど小学生六年の秋頃を境に、日ノ本の記憶から福島がぱたりと消えている。何があったのか。中学に上がる頃に日ノ本家は引っ越したから、それで会わなくなったのだろう。
伝えることはなかった初恋は今も胸に燻ったままだ。
福島光忠と再会したのは、社会人になってさほど経たない冬。
木枯らしが吹き抜けるアパートの廊下、日ノ本の家の前にちょこんと座っていた。
「……光、忠…?」
嘘だろうと思った。だってそんな偶然あるわけがない。それでも口から転がり出た名前に相手はパッと顔を上げる。
「号ちゃん!」
会いたかったよ!破顔する顔は記憶の中より随分精悍で、けれど浮かべる表情は記憶の中の福島そのままだった。
「お前、こんなとこで何してんだ?」
問えば困ったように眉を下げられる。
「実はちょっと、行くアテがなくて…」
「ふぅん?まあいいとりあえず入れよ」
鍵を開けて促すが、遠慮したように動かない。仕方ないのでいいから入れと腕を掴んで引っ張り込む。この明らかに不審者が本当に福島だろうとそうでなかろうと関係はなかった。寒空の下に放り出すのも忍びないし、一晩くらいならいいだろうと、そんなことを思ってしまった。そのくらいには懐かしさで浮かれていた。
「お前、今何してんだ?」
とりあえず座れと座らせて、朝食用に買っていた食べ物を差し出す。どうせ何も食べてないのだろうと踏んでの行動だったが、意外なことに手は出されなかった。
「何、か……ううん難しいな…」
「あァ?」
「実は今職を失ってしまっていてね…」
正直そんなことだろうとは思っていた。まあいいだろうと深く追及はしない。問題は身の上よりも日ノ本の元へ辿り着いたことだ。
「何でそれで俺んとこ来た?」
「えーと、何でだろ……気付いたらあそこにいた、じゃダメかな?」
「いや、ダメかなってお前…」
答えになっていない。が、ここまであからさまに答えを濁されると逆に返す言葉が出てこない。その後も色々と尋ねたが、どれも曖昧に濁されて終わった。
それなのに何故か日ノ本は朝になっても福島を叩き出す気にはなれず、この狭い安アパートに置いている。福島は日ノ本が出勤している間に細々とした家事を片付けて過ごしているらしい。忙しいこの時期に家事に煩わされなくて済むのは存外楽で、追い出さない理由の大部分を占めていた。それでも時々身の上について尋ねるが、その度に誤魔化された。
そうして春になる少し前、「ありがとう」と書き置きひとつ残して福島は姿を消した。何だか狐につままれた様な心地だった。挨拶くらい面と向かって言ってけよと、呟いた声が一人の部屋に溶ける。
それから春になり夏を過ぎて秋が終わった年の瀬手前。福島光忠は一年前と同じようにドアの前に座り込み、帰宅した日ノ本にへらりと笑った。そうしてまた冬の間を過ごし、春になる少し手前にふらりと姿を消してしまう。
そんなことを何度繰り返したか、正直もう覚えていない。それくらいには日ノ本は福島のことを受け入れていたのだ。
* * * * *
「おやぁ、今日はツレはいないのかい?」
行きつけの飲み屋でかけられた声に顔を上げる。そこにいたのは般若と呼んでいる飲み仲間だった。
「アイツは家だ」
「……そうかい」
「なんだ、アイツに用があったのか?」
「いいや、特に」
言いながら般若は隣に座って注文する。それからしばらく大したことない世間話をしていたが、ふと、般若が口を閉ざす。
「……福島さん、だったか。旦那のツレ」
「あ?光忠がどうした?」
一呼吸置いて出されたのは福島の話題。思わず眉が寄る。般若は特に気にせず続ける。
「あの人、旦那とどんな関係なんだ?」
「どんなってそりゃ…」
言われて一瞬答えに詰まる。少し考えてから昔馴染みだと答える。すると般若は真剣な顔で問いを重ねた。
「最初に会ったのはいつ頃だい?」
「いつって……俺がガキの頃だけど」
「その頃からずっと続いてる付き合いかい?」
「いや、俺が引っ越して別れて……っておい般若、こりゃ何の質問だ?」
やけに細かく食いついてくるのが癇に障る。問い返すと般若はまあいいかとへらりと笑った。それで話は終いだろうと思えば、今度は内ポケットから一枚の写真を取り出した。
「この男に見覚えはあるかい?」
トントンと指で示された人物に日ノ本は目を見開く。
写っていたのは日ノ本の記憶に残る、高校の制服姿の福島光忠だった。
* * * * *
般若の言葉が頭の中を回り続ける。
写真の少年は福島光忠という名の般若の親戚で、随分昔に亡くなっているそうだ。
それを疑うつもりはない。
だって日ノ本はもう思い出してしまった。小学生の自分が初めて参列した葬式は、初恋の相手のものだった。
あの時自分がどうしたのかは思い出せない。ただ、約束していた旅行のお土産はもうもらえないのだということだけは理解できて、嘘つき、と思ったような気がする。
たくさんの花に囲まれて微笑う写真の福島が綺麗で、それでももう福島はいないのだと突きつけられた。そしておそらく、許容量を超えた悲しみがこの記憶に蓋をした。いつのまにかいなくなった初恋の人。そんな綺麗な思い出にしてしまって、いつかまた会えたらとそんなことを心の片隅で願い続けていた。
けれど、だからこそ。
「あ、おかえり号ちゃん」
今目の前で笑うこの、福島光忠と思っていた何かと向き合わなくてはならないのだ。
「どうしたの、号ちゃん?」
きょとんと首を傾げる姿は記憶の中の福島と重なってギリと奥歯を噛み締める。
何も返さず横を抜けて寝室に荷物を置く。その間もそいつは色々と話し続ける。深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
「――光忠」
声をかければぴたりと声は止む。何、号ちゃん。そんなことを言いたげな顔だ。きっとこいつは何もわかっていないのだろう。ゆっくりと体を起こし、向き直る。これだけは真っ直ぐに向き合わないといけない。
「お前……誰だ?」
それは何も言わずに福島と同じ笑い方でにこりと微笑んだ。どう出るか。身構えた、瞬間。
――どろり
まるで水気を含んだ粘土細工が形を保てなくなったように、目の前の「福島光忠」の形が崩れた。
ぼとぼとと床に落ちていくそれが山を作っていく様を、日ノ本はただ見つめていた。
差し込む日差しに日ノ本が目を覚ますと、家の中がやけに静かだった。時計を見れば昼前で、何もなければ福島がぱたぱたと家事をしている時間だ。買い物にでも出ているのだろうか。体を伸ばしながらダイニングに向かうと硬い物を踏んだ。足をどかせばそこには以前渡した合鍵が落ちていた。
「……あ?」
時期としては例年より随分早いが、もう出て行ったのだろうか。不思議に思って周りを見るが、書き置きの類はない。
首を捻るが出勤の時間だ。そのうちーーそれこそまた次の冬になれば来るだろうと早々に頭の隅に追いやられる。
年が変わって春になり、季節が巡って年の瀬が迫っても福島光忠がやってくることはなかった。
続