それから
――光忠。
名前を呼ばれた気がして足を止める。
少し待つが誰もいない。
「福島さん?」
足を止めた福島に隣を歩いていた男士が声をかける。
それに何でもないと笑い返して歩を進める。
今、この本丸に日本号はいない。
日本号は昨日、修行の旅に出た。
彼が修行に出たいと申し出たのは福島が顕現するよりずっと前のことだそうだ。しかし当時は戦力の調整や、先に申し出ていた者が多かったため、見送られていたのだそうだ。そうして諸々の都合がついたため審神者は日本号を修行へと送り出した。
少し前から近侍を任されていた福島は何人かの修行を見送っていた。だから修行の期間中に三通の経過報告が届くことを知っている。そこに何が書かれているのかを覗いたことはないが、日本号がどんなことを書いているのかは興味があった。届いたら審神者に見せてもらえないか頼もうか。そんなことを考えていたら、突然近侍の任を解かれてしまった。
「この手紙は己と向き合い答えを出すの思考整理のようなものです。だから余人に見せるものではないんです」
知己であるなら、尚更。そう言って近侍を前任と交代してしまった。
「私が三通目を読み終えたら出迎えのためにもう一度近侍をお願いします。それまでの間にあなたも折り合いをつけてください」
「折り合い?」
「男士によっては修行の結果大きく考え方を変える者もいます。日本号はそうでもないと思いますが、元の彼と多少は変わってしまうことは覚悟しておいてください」
「変わってしまう…」
暗い声で返す福島に審神者は微笑む。
「大丈夫です。これはそれぞれが抱える物語の中心を定める行程なのでそれ以外を捨て去って考えを変えてくる者は……いないわけではないですがとても少ないです」
「物語の、中心…」
「それでも一応、日本号にとっての物語の中心があなたの望むものではない可能性は覚悟してください」
「それが、折り合い…」
「何を見るかは当刃にしかわかりません。私たちにできることは待つことだけです」
だからあなたはできる限り普段通りに出迎えてあげてください。そんな言葉で福島は審神者の執務室を退室させられた。
そんなこんなで久しぶりに審神者の相手をせずに過ごすようになってから二日。
前にもこんなことがあった気がする。
自室に戻った福島は深くため息を吐きながらそんなことをぼんやりと思う。
いつのことだろうか。そうだ、あれは確か冬。雪の積もった庭の前で。いいや、違う。見ていたのは満開の桜の時もあった。鮮やかで涼しい木陰でもあったし、赤く色づく木々かもしれない。何度も何度も同じことが起きて、結局季節が何回も巡っていた。
光忠。
後ろからそう呼びかける日本号の声がして、振り返る。どれだけ待っても声の主が顔を覗かせることはない。そうやって何度も季節が巡った。
声が聞こえなくなったのは水戸へ行くと決まった後。福島の家を離れれば流石にその声もしなくなった。はじめは幻の声すらも消えたのかと、そうして彼を忘れるのかと怯えた。それから色々あって、声がしない日々にもなれてしまって、それから…
「福島」
入り口からかけられた声にはっと顔を上げる。見れば近侍が心配そうにこちらを見ていた。
「主からの言伝だ。三通目を読み終えた。出迎える覚悟ができたのなら今日中に執務室まで来い。以上だ」
「あ、待って!」
去ろうとした相手を慌てて引き止める。
「仕事の引き継ぎがないってことは、今日の仕事は終わりなんだろう?お茶でも飲みながら……少し話を聞いてほしいんだ」
必死に縋る福島に近侍はひとつ瞬きをした後、いいだろうと頷いて入室した。
「……声が聞こえるんだ」
「声?」
「日本号が俺に呼びかける声。本丸のどこにいても何をしても、呼ばれたような気がしてしまう。でも、どれだけ待っても日本号は来ない。当然だ。修行の旅に出ているんだから」
寂しいのか?近侍の問いに福島は首を横に振る。
「全然寂しくないと言ったら嘘だけど、寂しいわけではないよ。でも、気になるのは多分、そこじゃない」
なら何が。問われて福島は目を伏せる。
「日本号が変わってしまうこと」
「変わってしまう?」
「俺の知らない時間を過ごして、彼が俺の知っていた彼と違ってしまう。それは、当たり前のことだけれど、少し悲しくて、怖いんだ」
「……日本号は修行に行ったからと言ってお前を蔑ろにするような奴ではないだろう」
「それは、そうなんだけれど……多分、気持ちがあの頃に引っ張られてるのかもしれないね。あの時とは違ってきちんとまた会えるってわかってるんだけど…」
「飲み取りの後の時間が修行先で、そこを起点に変化した日本号か」
近侍の言葉に頷く。福島にとって日本号はとても大きな存在だが、日本号の中には福島家以外のものも多くある。そういう時間の過ごし方をしてきた。だから福島家以外のことで日本号が変わってしまったとして、何もできないし、何か言うことすらできない。
「……だとしてもそう簡単に変わるとは思えないが」
「そうだといいなって思っているよ」
「とにかくまずは出迎えてやれ。お前の出迎えに不満を抱くような変わり方はしないだろう」
その先のことはその後考えろ。言って近侍は湯呑みを干して席を立つ。それを見送って卓を片付け、福島は審神者の執務室へと向かった。
「大丈夫だと思いますよ」
余程沈鬱な顔をしていたのか、苦笑しながら審神者が言う。
「本気でお仕事頑張ります宣言でしたから」
「それ手紙の中身だろう。言っちゃって良かったのかい?」
「これから来る日本号の心構えの話なので。何故彼がそう考えたかは言えませんが」
「そう」
「だから笑って出迎えましょう」
そう言って審神者はぐいぐいと頬を指先で押す。遠慮のない手つきは力が強い。
「痛いよ、主」
「それはすみません」
「心配しなくても大丈夫。もう整理はついたよ」
だって、あの時よりも恐ろしいものはないから。眉を下げつつも笑いながら言った言葉に納得したように審神者は頷く。
シャン、と鈴が鳴る。
修行から男士が帰った合図だ。
「行きますよ」
落ち着いた審神者の声に頷くと、障子越しに大きな体が現れた。