これから
――号ちゃん。
声をかけられた気がして振り返るが、そこに思った相手はいない。
福島光忠は、現在極の修行の旅に出ている。
この本丸では男士が修行を申し出た後一旦保留とされ、折を見て再度審神者から打診されるのが通例だった。日本号の頃はそうだったが、どこかで区切りがついて最近は修行を申し出る者は少なく、審神者もすぐに了承するようになった。福島はそんな経緯で修行に旅立った。
兄弟刀たちや仲の良い相手などとの程々の見送り役争奪戦の末、その役目を勝ち取った日本号は旅立つその背を見送った。
数度名残惜しそうに振り返った福島は、ひとつ頷くと、大きく手を振って離れて行った。それに小さく手を振り返して、姿が見えなくなるまで見送って――そうしてそれは始まった。
日常のそこかしこで福島の声が聞こえる。
弾む声音。潜められた声音。周囲へ振る舞いと変わらぬ落ち着いた声音。どこか怯えた声音。
種類は様々だがどれも聞き覚えのある声だ。声音だけで言いたいことの半分は言い当てられる。そのくらいに福島が日本号を呼ぶ声は自分に馴染んでいた。
福島は修行でいない。そんなことはわかっている。
それでもふとした折に、福島の声が聞こえてくる。
「あなたがその寂しさを訴えるのは意外ですね」
二日目の晩に審神者に相談をすればくすくすと笑いながらそんなことを言われた。
「寂しいのか、俺は?」
「私にはそう見えますよ……って、そういえばあなたは大切な何かが喪失する経験は少ない部類ですね」
「……あんたにはあるのか?」
普段あれほど人の心があると思えないことばかりを言う審神者だ。少しばかり疑わしくなって問えば、あっさりと頷かれた。
「もう決して更新されないメッセージ欄を後生大事に抱えたり、来るはずのない着信を待ち続けたり。現実を直視したくなくて墓参りを先延ばしにしたり。皆さんが言うより存外ただの人間ですよ」
感情に振り回されるのが好きでないだけなのだという審神者は言葉通りにただの人間と変わらなかった。
「これは福島光忠にも言ったことですが、修行から帰った彼が変わってしまう覚悟だけはしておいてくださいね」
言われるまでもない。己もそうであったし、他の者もそうだ。であるなら福島も当然そうなる。修行とはそういうものだろう。
「どんなに近い二人でも、離れた時間があればその分二人は重ならなくなっていきます」
「それがどうした?」
改めて言われるようなことだろうかと首を傾げると、審神者は静かに続けた。
「福島光忠が顕現して以降、あなた方はほとんどの時間を共に過ごしていました」
「まあ、そうだな」
「今、福島光忠は初めて彼しか知らない時間を過ごしています。あなたの修行がそうであったように」
わかりますか。問われて日本号は息を呑む。修行の期間は本丸の時間で四日間。けれど修行を行う者の時間はそれぞれに違う。福島がどこでどのような時間を過ごすかを日本号には知る術はない。
「おそらくこれはあなたが福島光忠と過ごす時間の中で最も大きな断絶です。あなたの修行の間の福島光忠の様子は他の者から聞けますが、彼の修行は彼だけの時間です。そしてこの断絶は埋められるものではないと私は考えます」
「なら、どうすんだよ」
「受け入れるしかないかと。そのために覚悟をしてくださいと言ったんです」
「受け入れる…」
知らず声が震える。そんなふうに考えたことなどなくて、急に福島の帰還が恐ろしくなる。福島がこれまでと変わってしまう。何を見て思ってどう変わるのか日本号には想像もつかない。
「大丈夫ですよ。あなたに対しては少し比重が変わる程度で今と変わらず日ノ本一の槍として扱ってくれるんじゃないでしょうか」
「その比重が問題なんだがな…」
「おや、存外あなたの方が脆かった」
くすくすとおかしそうに審神者が笑う。じとりと睨みつけているとすみませんと軽い謝罪をされた。
「福島光忠の方はあなたがいない環境からナイーブになっていましたが、覚悟自体はあっさりと決めていたので」
「福島が…?」
周囲から聞いた話とはすこし違う。日本号がいないことに戸惑っていたと周りの連中からは聞いた。
「福島家で別れてから本丸で再会するまで以上の変化はないだろうから大丈夫。そう言ってました。福島時代と今はそんなに違うのかという問いは答えを濁されましたが」
あなたはどうですか。視線で問いかける審神者に答える言葉を日本号は持っていなかった。
相手が自分には想像も及ばない時間を持っていると理解している福ちゃんと自覚していなかった号ちゃん。
2023/11/28