光月おでんの訃報が白ひげ海賊団にも届いた。
閉ざされたその国の情報が届くには時間が必要で、その一件が起きてから既に数年の時が経っていた。
その報せに誰より荒れたのは彼の人を弟分と呼んでいた白ひげで。泣きながら飲む酒の量が増えて、酔っては誰かに絡んで散々だった。気持ちはわからないでもない。おでんを知っているものは多かれ少なかれ同じ気持ちだ。
さて、光月おでんの関係者といえばこの船にはもう一人いる。そいつももちろん一緒に報せを聞いていた。あれだけ主君思いの男だ。どれほど怒りを漲らせていることか。当時を知る者はみな、ひっそりと様子を窺っていた。
ところが、だ。
「……そうか」
ひどく平坦な声でそれだけを言うと。持ち場に戻って行った。この反応には誰もが度肝を抜かれた。
まだ若い頃はおでんを害するのであれば白ひげにさえ憎悪を向けていた男だ。反応がない。それだけで当時を知るものの目には異様に映った。
そして翌朝。
「イゾウが落ちたぞー!!」
おでんの訃報が伝わって一晩が経ち、空が白み始めた頃合い。甲板中に声が響き渡る。騒ぎはすぐに船内に広がって上を下への大騒ぎだ。
「ったく、あいつは何をしてるんだよい!」
すぐに浮きを投げ入れた奴がいたおかげで見失うことはなかった。脱力して沈みかけたイゾウを引っ張り上げて小船に乗せる。応急処置をしてからマルコが運んで医務室に放り込む。
そこからは嵐のようだった。
まず、あんな時間にイゾウは何をしていたのか。船長と隊長達の前に引き出された見張り番の言うことには、イゾウは一晩ぼんやりと空を見ながら物思いに耽っていたそうだ。そして夜通し眺めていた反動かふらつきながら船縁を移動していたところをおそらく朝日が目に入り、バランスを崩して落下した。
その一連の話を聞いた隊長たちは重いため息を吐いた。
「え、つまりアイツやっぱ見栄張ってただけなのか?」
「めちゃくちゃショック受けてんじゃねぇか」
「そりゃアイツにとっちゃオヤジと同じくれえ大事な相手だ。わからなくもねえけど…」
「なんか、心配だよ」
やいのやいの騒ぐ中で、ハルタがぽつりとこぼす。一同の視線がハルタに向けられる中、ハルタは言葉を続ける。
「このままだとイゾウ、そのおでんって人のこと追いかけちゃいそうだ…」
ハルタはおでんを知らない。けれどその呟きはその場にいる全員が抱いている不安と相違なかった。これ以上彼を船内で一人にするのは不安だ。
「……オヤジ」
船長は白ひげだ。彼も彼で傷心なのだが、それはそれとしてイゾウについての沙汰を決めてもらわねばならない。
重々しく口を開いた白ひげの言葉に、異を唱えるものはなかった。
僕は あのひとの影を越えることができないのですか
「悪かったな。七日も寝ちまって」
「……謝るところはそれじゃねえよい」
平素と何ら変わりなく、からりと笑いながら言われた言葉に思わずツッコミを入れる。カウンターの向こうでサッチも同意するように頷いている。
医務室に担ぎ込まれて五日、イゾウは薬で眠らされていた。目覚めた時に万が一暴れられても困るからと、手足はベッドに固定されていた。目を覚まし、精神状態は問題なしと診断され、ただししばらくは隊長の誰かか最悪白ひげの元に置くこと。そういう指示が入った。なかなかに無理のある注文だと思ったが、古株に類するイゾウにとっては元々親しい連中とつるんでいるだけで、さほど気にしていないのだろう。
「おお、いたいたお前ら三人、オヤジからの呼び出しだ」
と、ビスタが食堂に顔を出して言う。ついに、その時が来たのだ。サッチと二人思わず唾を飲み込む。
「マルコとサッチはわかるが、おれもか?」
「ああ。というか今回はお前が主役だ」
「おれがぁ?」
事情を飲み込めないようで、しきりに首を傾げながらイゾウはビスタに続く。居並ぶ隊長達と白ひげの前に立たされてもイゾウは平然としていた。
「グララララ、調子は戻ったようだな」
「ああおかげさまでな。なんかものすごく休んじまって逆に申し訳ねえ」
「お前も気ィ張ってたんだろ。休めたんならそれでいい」
朗らかに笑う二人とは裏腹に、隊長達の気は重かった。これから入る本題を果たしてイゾウは受け入れるだろうか。否、イゾウの意志はどうあれ白ひげの決定である時点で覆らないのだが。
「で、オヤジ。本題は何だ?こんだけ隊長連中が雁首揃えてんだ。まさかおれの体調確認だけってこたないだろ」
イゾウの言葉にピンと空気が張り詰める。鷹揚に笑っていた白ひげも表情を引き締める。
「イゾウ、お前ぇ、隊長をやらねえか?」
「ん?新しいとこでも作るのか?編成上今のままでもいい気がするが…」
「そうじゃねぇ。お前ぇが二番隊の隊長をやらねえかって意味だ」
イゾウのまとう空気が二度程下がった。隊長たちは思う。これは逆鱗に触れた。
「……何の冗談だ、オヤジ」
睨み据えるその目が船に乗った当時以上に険を孕んでいて、隊長たちの肝が更に冷える。あ、今こいつ侍だ。マルコは思った。
「おれに!おでん様が座っていた席に座れってのか!」
「そうだ」
「ふざけるな!!主君が死んで空いた席に座りたい家臣がどこにいる!!おれは絶対にやらないぞ!!」
この猛反発は半ば予想していたものだった。彼は白ひげの息子でありながら、亡き光月おでんの家臣だったのだ。簡単に引き受けるとは思えなかった。もしかしたら間が悪かっただけかもしれない、ともマルコは思うが。
反発して睨みつけるイゾウを白ひげは静かに見下ろす。
「おれの決定に逆らえると思ってるのか?」
船上において船長の決定は絶対だ。ぐっとイゾウが押し黙る。それでも目付きは変わらない。あの日おでんに無体を働いたと白ひげを非難した時の怒りと恨みと己の無力さを呪う感情を煮詰めた目だ。当時を知らない者たちが、ひっと上ずった声を上げる。
ぎりと奥歯を噛み締めてイゾウは白ひげを見上げる。言葉はない。しかし退く様子も見せない。
「……そこまで嫌か」
「ああ」
普段より数段声が低い。やっぱりこいつ今侍に戻ってら。おでんが絡んでいるのだから仕方ないと言えば仕方ないが。
そうか。呟いて白ひげが深くため息を吐く。
「だったらイゾウ、お前ぇ、二番か十六番か選べ」
「……は?」
「お前を隊長に据えることは決まってんだ。おでんの後引き継いで二番隊を背負うか、新しく作る十六番隊を背負うか、選べっつってんだ」
突然のことに呆けるイゾウに白ひげが畳み掛ける。側で見ていて可哀想になる程混乱している。
「お前が選べねぇなら二番隊を任せるが…」
「十六!」
白ひげの言葉を遮るようにイゾウが叫ぶ。
「率いるなら、十六番隊がいい」
「そうか」
満足そうに白ひげが笑う。
「それじゃあお前は今日から十六番隊の隊長だ。おいお前ら、十六番隊に移す奴決めとけ」
「もう決めてあるよい」
答えてマルコはひらりと羽ばたく。
「これが候補のリストだ。あとはオヤジがオッケー出すだけだよい」
「グララララ!じゃあそれで回せ!」
「いや、一応中身くらいは見てくれよい…」
呆れるマルコをそのままに白ひげは再びイゾウに向き直る。
「お前さえ良ければ二番隊をってのは本気の話だ」
「は…?え?」
「おでんはおれにとっては弟だ。その弟が面倒見てた家臣なんだ。継がせるならまずはお前だと考えても何らおかしくねえ」
「オヤジ……だが、おれは…」
「ああ。お前が今も通してるおでんへの忠義を危うく踏み躙るところだった。辛い選択をさせちまったな」
「そんな!そんなんじゃねえ!」
白ひげの謝罪にイゾウは慌てふためく。それから罰が悪そうに首を掻いた。
「オヤジがおでん様の場所を空けておいてくれたのは、おれにとっても嬉しかったんだ。だからおれが二番隊を継がねえのにおでん様は関係なくて、単におれに覚悟がないからなんだ。どうしてもおでん様と自分を比べて、同じようにできない自分を呪っちまう……それは、きっと誰にとっても良くないことだ」
「……そうか」
「だから、おれはその席に座れねえけど、誰かオヤジが認められる奴が来たらそいつを座らせてやってくれ」
頼む。きっちりと頭を下げるイゾウに白ひげが鷹揚に笑う。この話はこれで終わりだ。
「んじゃ、新しい隊長さんには色々覚えてもらわないとねい。これが隊員のリストだよい!」
イゾウの隣に着地し、先程白ひげが見なかったリストを差し出す。数度瞬いたイゾウは顔を引き締めて今度はマルコへと深々と頭を下げる。
「拙者未熟者故、ご指導ご鞭撻の程、お頼み申す」
「き、急に何だよい!」
「ワノ国でこういった場面でする正式な挨拶だ」
「ここは白ひげ海賊団だよい!」
誰かが吹き出したのを皮切りに、全員がどっと笑い出す。白ひげも、マルコも、イゾウも全員だ。
よかった。これでイゾウを一人にすることはない。彼が追いかける影を越えられなくても、拭えなくても、隣で笑うことはできるのだ。